2013年2月7日木曜日

(雑記)体罰について




今日は最近話題となっている体罰について書いていこうかと思います。

まず私はスポーツ指導における体罰は反対です。
どう考えても適切な指導とは思えないからです。
「おれはサッカー選手になるんだ!だから明日からボクシングやるんだ!」
っていわれたら、いやその前にサッカーやれよって話ですよね。

○○うまくなりたい → ○○の練習をする

この構図崩せる人いないと思うんですよね。
激しい体罰に耐えたところで激しい体罰に耐えられる肉体が手に入る以外ないですよ。
そんな肉体が欲しいなら体罰なんて回りくどいことやってないで極心空手でもやれば?って話ですよ。
体罰でそれ以外の他の何かがうまくなるなんていうのは幻想でしょう。



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体罰には失敗を減らす効果はあります。体罰によって(失敗=痛い)という恐怖を記憶に植え付けることによって失敗にからんだ事象に対する注意力を上げることができます。これは本能に働きかけてるので効果があるのでしょう。
ただ、しかし、それだけです。体罰で才能が増すなんてことはありませんよ。どんなに殴ったって2流の選手は2流の選手のままです。とってつけたように才能を移動させることは誰にもできません。
また、指導としての体罰は筋が悪い。失敗の原因を理解させる、考えさせるということがどうしても欠けてしまう。痛い思いをしたくなかったら2度と失敗するなっていうのはどうしても本質から離れてしまう。なぜその失敗がいけないのか?その失敗をすることでどのような流れになってしまうのか?それは自分にとってどうなのか?こういった思考を巡らせる機会を奪ってしまうことになりかねません。軍隊のように仕込んで一流のフリをしていても、失敗の本質に向き合った新の強者には敵いません。メッキなんていずれはがれてしまうんです。




プロスポーツの世界は非常に厳しいです。ほとんどの者がその世界に入ることはできないし、そこでは食べていけない。学生時代に全国大会に出たとしても難しいでしょうね。毎年次から次へと新しい優秀な奴が割り込んできますしね。圧倒的実力・才能、運、健康、これらが備わっていないとほぼ無理でしょう。宝くじを当てるようなものだといっても過言ではないかと思います。体罰が一流の条件に入り込む余地なんてないんです。
体罰をしてしまう気持ちはなんとなくわかります。もどかしさからついという感じなんでしょう。しかし、スポーツではほとんどの者が食えないという現実についてよく考えるべきです。体罰でどんなに強制したところでこの現実は変わりません。他者の人生に責任持てますか?持てるわけないですよね?他人なんだから。
それにもかかわらず激しい暴力で強制的に盲目的に高みを目指させるというのは本当に質の良い指導と言えるでしょうか? 私は言えないと思います。というかそこまでしなきゃできないってんならあきらめたほうがいいです。たぶん一流にはなれないでしょう。

「食えないんだからスポーツを打ち込むな!」といいたいのではありません。本来の目的であるスポーツを通して人間的・精神的成長を促す適切な指導を目指すべきだといいたいんです。誰のための指導かというのはよく考えるべきです。
たとえプロ選手になれなくともしっかりと自分の頭で考え、本当に自分で失敗に向き合った経験があれば、社会に出たときにプラスに働くはずです。逆に体罰待ち、指示待ちの親鳥ぶったヒナ鳥のようでは社会では苦しい立場に立たされるんじゃないでしょうか?頭使わないといいように使われてポイです。

長くなるのでこの辺りで...以上です。


※実は私もとある合宿で来ていた体罰校と練習したことがあります。
さすがに30~40発殴るといったことはありませんでしたが、よく怒鳴られ平手打ちだとか竹刀でこづかれたりしてました。
彼らは強かったです。ただ、強いんですが、ずば抜けて強いって感じではありませんでした。
練習試合などではそこのレギュラーが私の先輩に負けてたりしていました。
(ちなみに私のところは体罰なしです。)
...まぁつまり体罰なんて結局のところその程度の効果しかないんだと思います。
とはいえ、体罰ってのは中々なくならないんだろうなぁ。学生のころって妙にそういった環境にいる奴を尊敬しちゃったりね...「劣悪環境でやってるアイツすんげー」みたいなね。当人もそれ自慢しちゃってたり。「俺はこんな辛いことに耐えた。お前らは?」みたいな会話ついていけなくてしょんぼりしてた記憶あります。今考えると何にしょんぼりしてたんだって感じですが(笑)ある種の不幸自慢なのかなあれも。